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ほぼ日刊イトイ新聞

2025-05-20

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・もうこの世にいない人のことを考えて、
 「せめて、もう一度だけ会っておきたかった」と人は言う。
 おれも、言う。そういうことを。
 それは、もう死んじゃってて会えないとわかっていて、
 そのことを知りながら言っていることだ。
 会えたとしたら、こんなことを話したかったとか、
 こんなことを聞いてみたかっただとか言う。
 おれも、言った、そういうことを。

 会えないという結果がでてから、
 会いたくなったりするものなんだよな。
 どんな話を聞きたかったか、と、いまさら考えたとして、
 機嫌よくどうでもいい話をしている人を前にして、
 意を決したように「いい質問」なんかをするってことか? 
 相手は、あんたと「ともだちとしての時間」を
 たのしく過ごそうとしていたのに、
 なにやら大事そうな話をたくさんするつもりなのか? 
 というようなことも考えてみようや。

 いかにもとても「いい話」をやりとりすることもいい。
 そうしたかったら、それはいいのだと思う。
 そういう時間もあっていいし、
 それがどっちにもたのしかったらなによりだ。
 ややこしいこと、人生やら人間の大問題を語るのもいい。
 まぁ、またいつか会えると思うから、
 「むつかしいことは、またにして」ということだっていい。
 あんまり話をしなかったけど、
 いっしょに過ごす時間はたのしかった、でも十分だと思う。
 家族だとか、親しい関係だと、そういうことも多いだろう。
 なにをテーマに、とかいって生きているわけでもないし。

 死んじゃったら、もう、それだけだ。
 思想家であろうが、詩人であろうが、技術者であろうが、
 学者であろうが、経営者であろうが、普通の人であろうが、
 友人であろうが、恋人であろうが、親であろうが、
 もうなにも言わない、言ってくれない。
 「なんて言うだろうなぁ」と想像することしかできない。
 そして、その想像は、まぁ、想像する人の想像でしかない。
 生きてるうちに、人には会おうよ、それしかないよ。
 おれもそうするよ、じぶんがいなくなるかもしれないし。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
読むとか、聞くとか大事だけど、会うはもっとすごいことだ。


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